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歴史
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鎌倉小児保育園成立まで
   
明治32   (1899)   11月   保育院維持費補助のため生産部を設け歯磨粉「保育散」の製造販売を開始する。
●収容児童の増加に伴い、生業たる医業の収益が追いつかず、この困難打開のため音次郎が思い立った窮余の一策である。なお、「保育散」製造販売に伴い作成した趣意書は本院がはじめて世に出した文書である。
           
明治35   (1902)   06月16日   音次郎夫妻、鎌倉美以教会牧師山鹿旗之進より受洗。
●これより小児保育院の日課に基督教諸行事が入る。
           
        07月   「東京女囚携帯乳児保育会」(板垣退助伯爵夫人会長)結成。
●従来、監獄内で哺育されていた女史受刑者の乳児たちが分離保育されることとなり、小児保育院が委嘱される。この末で収容児童は33名となり、園舎が手狭になった。腰越津村長井上安次郎は、これに同情、音次郎に保育専用舎建設の用材寄付を申し出る。そのための建設資金調達のため、東京の吐鳳堂より「結核征伐」(板垣退助伯爵等序文)を小冊子として出版、音次郎は自ら、その訪問販売に努める。

東京女囚携帯乳児保育会から委託を受け、乳児が多くなる。
           
        10月13日   内村鑑三の紹介で理想団(黒岩涙香主宰)定例懇談会で講演、あわせて「結核征伐」販売。
●このときの音次郎の講演に感銘した「万朝報」記者堺枯川(利彦)は、小児保育院訪問、同新聞10周年記念号に特別報道。この記事を感慨深く読み、後日、鎌倉保育園を訪ね、音次郎の事業に感激し、協力を誓い通した人々に後の財団鎌倉保育園の評議員となる益富政助、宮沢六郎、山縣五十雄などの諸氏がいる。
           
明治36   (1903)   06月   保育専用舎(10坪)落成。
           
        10月   音次郎疾患再発し、院の経済は崩壊寸前に陥る。
●この時、以前、その表札に引かれて小児保育院を訪れ、音次郎から事業の趣旨を聞いていた旧高鍋藩主秋月 新太郎がこの様を知り痛く同情し、直ちに大蔵大臣子爵曽根荒助、円覚寺派管長釈宗演らと語らって急場の資として揮毫の書を送り、慈善書画会の開催を音次郎に促す。これにより、第1回の書画会を開き、金300円の収益を得て一時の急場を凌ぐことができた。
           
明治38   (1905)       音次郎(42歳)、本元旦(日曜日)より毛筆による日記を認め始める。
●本日誌は、晩年昭和14年師走まで、保育園内外のことから、財団や各施設の経営管理に至るまで、自らに悩み考えた35年の諸事が29冊の和罫紙にまとめられており、昭和50年、法人創立80周記念に中央公論より「日誌佐竹音次郎」として出版された。
           
        08月19日   医業を廃止し、保育事業に専念することを決意。
翌月、医院を義姉沖本幸子に譲渡。
           
明治39   (1906)   05月30日   鎌倉町大町607番地に新園舎竣工、移転。収容児童40名、「鎌倉小児保育園」と改称。
●建物は3棟からなり、うち2棟は木造二階建の大きな瓦屋であり、平塚にあった古い宿屋と庄屋とを買い取り、保育園向けに建て直したものであった。母屋であるうち1棟は、1階が事務室、応接間、男児及び男子職員(男子家族)居室、台所、大食堂、浴場、便所その他、2階は雨天時などの場合の児童の遊技場として使用した。南向きに建つもう一棟の瓦屋は、1階が約50畳の保育室兼女児及び女子職員(女子家族)居室、二階は40畳ばかりの広間を4室に区切り、集会室、静養室などに用いた。他の1棟は以前、井上保次郎氏から用材の寄附を受けて築造した家屋にその後6畳間を造作したものを腰越から移転したもので、病室・伝染病隔離室として使用した。3棟あわせ約180坪、総建築費はおよそ3,600円であった。
 音次郎は小児保育園における「家族」を血縁や戸籍面とにかかわりなく、各人がすべて相互に「保育園の家族」であるとし、自らを「園父」、妻のくまを「園母」、男の長者は「おじさん」あるいは「おにいさん」、女の長者は「おばさん」あるいは「おねえさん」、そして、少者はすべて弟または妹なりとした(このような呼称に基づく呼び合いは鎌倉保育園の伝統の一つとして第二次世界大戦後まで引き継がれた)。又、以上の理由から、園内においては、一人の雇人も、また、一か条の規則書をも存在しないものとし、故に、保育園の事業は自ずから役人的あるいは事務的におこなわれず、純然たる一般の家庭生活に外ならないとした。さらに音次郎は保育園は神の聖業であり、ここに暮らす家族には、一般の孤児院のように、救う側の者と救われる側の者との二つは存在せず、園父の音次郎をはじめ皆一同救われる側の者として存在し、保育園に暮らす者たちとして絶対平等であるとした。


移転落成した新園舎(鎌倉小児保育園)
明治39年6月頃撮影
           
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