この時点での各支部の状態とその後の運命については次の通りである。
(1)京城支部(支部長 曽田嘉伊智)
支部園舎はこの年の8月末罹災した。10月中軍政府と交渉がなり、収容児童150名は韓国側の3施設に分けて移管された。創立以来の入所人員は、1,104名であった。なお、本支部は後年、その跡地に大韓民国基督教永楽社会福祉財団により、養護施設永楽保隣院として復興される。
(2)台北支部(支部長 佐竹齋吉)
本支部は養護部のほか、愛育幼稚園、託児所、母子寮、国語講習所を併設してきた。このうち、幼稚園と託児所は戦局の悪化とともに休止のやむ無き至り、養護部・母子寮についても日本人の疎開や大量引揚げで次第に人員を減じ、終戦時8月の時点での現員は45名で、その後20名は縁故者が引き取り、25名は職員とともに引揚げてきた。創立以来の養護と母子収容は、1,044名、保育児は、6,880名であった。
(3)大連支部愛育園(旧旅順支部)(支部長 佐竹 里)
終戦時の現員は、75名、うち35名は現地で縁故者が引き取り、40名は職員とともに引き揚げてきた。創立以来の入所人員は592名であった。
(4)大連支部新生学園(支部長 難波 鹿太郎)
終戦時の現員は、30名、そのほとんどを縁故者に引き渡す。創立以来の入所人員は206名であった。